2020/08/30

茗荷

 我が家の駐車場の脇にある猫の額ほどの植込みには茗荷が生えています。
八月ころからでしょうか、地中から花蕾(からい)が生えて来るのです。














左の方は花が咲いてしまったもの。
内部の花の根元が茶色になってしまっていたりする事はありますが、食べても大丈夫です。
花の色は僅かに黄みがかった白色。
先日のアブラゼミの羽化の色ではないですが、弱々しげな美しさがあります。

茗荷の花(蕾)か生えてくるのは九月中くらいでしょうか。
年中生えてくれると嬉しいのですけれど、自然界では無理なこと。

野菜売場に通年で置いてある茗荷は、当然ハウス栽培です。
しかも現在は水耕(養液)栽培だそうですね。
土壌で育てるのではなく、ヤシガラで培地をつくり養液を流しながら育てるそうです。
昼夜を人工的に一日2回生じさせるなどして生育を促すという方法も摂られているそうです。

茗荷に限らず現在は水耕栽培が様々な作物に応用されており、これを「人工的だ」と感じる事も確かにあります。
しかし水耕栽培の決定的な利点は連作障害が無いことではないでしょうか。
畑での栽培ではある作物を育てると、翌年はその作物に必要な栄養素が少なくなってしまう。
ですから、その畑では別の作物を育てる事になります。
昔は一般的だった「焼畑農業」がその最大の帰結方法だったのでしょう。
時代が進み「施肥」によってそれを克服しようとしていったのでしょうね。

ところで我が国の主要穀物である「稲」、こちらは連作が普通です。
稲という植物が連作に強い面もあるかもしれませんが、大きな要因は「水田」なのではないかと。

根腐れに強いという稲の性質もあり、田んぼに水を張っておけるというのは大きな利点です。
山からの引いてくる川の水にはリンやカリウムを代表とする必要な養分が含まれているでしょうし、それが常時供給されるシステムですから、基本的には土が痩せていく事はない。
水田というシステムが、まさに水耕栽培であるという事です。

私は農業従事者ではないですし、色々と困難なことは実際に取り組んでいる方々の苦労は判りません。
けれども水耕栽培というのは今後の農業の在り方を変えていく可能性がありそうです。
「米を水田で作る」ようになった事によるエポックメイキングな発展が潜んでいるかも。

2020/08/22

山の井60

 近所のクイーンズ伊勢丹で山の井60を買ってきました。



















以前も書いた気がしましたが、このときは70でしたね。





















精米歩合60ということは、純米吟醸を名乗っても良いはずですが、そういった記載は無し。
「感じるままに飲んでください。」という。
一貫してますね。


2020/08/17

蝉の羽化

 夜、窓の外のベランダに面した外壁に虫が居るのを発見。
アブラゼミが羽化しているのでした。






























完全に脱皮しました。
あとは体内に血液が循環して羽を伸ばし、硬化するのみ。

ストロボの使用をやめてカメラの感度を上げました。
ベランダ照明の電球色になっちゃってます。

人によって見方は異なるとは思いますが、私は美しいと思ってしまいます。

暫くするとアブラゼミの色になってしまいます。
ここまで30分位だったでしょうか。

もう少ししたら、何処かへ飛んでいってしまうでしょう。





















我が家には小さな中庭があり、そこにはヒメシャラの木が植えてあります。
今日ここで羽化したアブラゼミは何年か前(最近の研究ではアブラゼミの場合2~4年との事)に幹に残された卵から孵化し、この中庭の地中で今日までヒメシャラの根から樹液を吸って育ってきたはず。
最後の人(蝉)生を謳歌し
て欲しいものです。

2020/08/16

今日も

 今日も善福寺公園で読書しています。

つまり、やるべき仕事が無いという事なのですよね。

暑いことを除けば屋外での、特に緑のある場所での読書は気持ちが良い。
暑いことは事実なのですが、木陰のベンチに座ると風を感じますし、日光を直接受けるのでなければそれほど暑くはないのです。
熱交換器で冷やされた空気の流れではなくとも、単に空気が絶えず動いている事、それにさえ「涼しさ」というのは感じられるものです。

読んでいる時間は本の中に入っている、けれども老眼鏡を外して辺りを見渡すとさっきまでの世界と異なる世界です。
これもまた幸福だなぁ(加山雄三じゃないですけど少々オーバーか)と思うところ。

人工的な公園とは言え、クヌギの大木の根元辺りの僅かに樹液が染み出している個所に次から次へとやってくるオオスズメバチ。
この間までは未熟だったムクドリの雛たちも既に一人(鳥)前になっている。
オナガの雛は一人前のようでいて、まだ大人の一歩手前でしょうか。

仕事が無い、確かに今回の騒動の影響は計り知れません。
実際に「やらなければならない事=義務」が無いのですから。

このブログでも「仕事」というラベル(カテゴリー)でも述べているように、私は人様のお店(特に飲食店)の立上げのお手伝いをしています。
正確に言えば設計とデザイン(これって同意語なのでしょうけれど、日本語でのニュアンスは異なりますね)の領域でのお手伝いです。

人生を50年以上過ごしてきて、そして今公園で読書をしているわが身を客観的に見て思うこと。
今日も仕事(?)してるなぁ。
今だから思えることなのかもしれませんが、今日この時間も何かしらのインプットにはなる(はず)。
若い頃はこの状態を「怠惰」と思っていたと思います。

何かの為に一生懸命インプットに励む事も確かにあります。
学生時代でいうならば参考書を読みまくるみたいな。
どちらが良いとかの話しではありません。
私の仕事というのは「私のアウトプット」に期待する方に対して期待に沿えるアウトプットをする事です。
こんな私の「排泄物」に価値を見出してくれる一部の人達のために私の仕事の存在価値があります。

だとするならば、そのインプットは私が無理してインプットするもの(先の参考書読みまくり)のようなものでなく、私の気の赴くままに入ってくるインプットで良いかもしれない。
無理に知識武装することもなく自分の興味のままに知見を得るだけ。
そして自分と異なる領域を持っている人と知り合えども、それがお互いの領分であることを理解しつつ協業できるとするならば、自分があちらやそちらの領域の知見を持つ必要はありませんね。

















傍から見ると「今日もあの御主人、仕事もせず公園でグダグダしていましたよ」ということになるのでしょう。

2020/08/15

昇龍蓬莱生もと特純美山錦60

 近所のクイーンズ伊勢丹で購入。






























夏を感じさせつつも酛で酸味やらパンチやらも欲しくって。
昇龍蓬莱生特純美山錦60です。




「狙い通り」ではなかったのですが、予想より深い所に来てくれました。
これはありがたい事です。

本日の気分で言えば、氷を一つ入れてロックにすると良い感じ。

2020/08/10

令和二年の梅干

 梅雨が明けたと思ったら、いきなり真夏日の連続です。
漬けておいた梅干を干しました。
今年も群馬の農家さんから送って頂いた「白加賀梅」を、昨年の1.5倍の12kg。
サイズが2Lなので数にすると350個程でしょうか。
一緒に漬けておいた赤紫蘇も「ゆかり」にするために干しています。

個体によってムラが生じてしまっていますが、既に紫蘇にも染まっています。





















三日間(実は四日間)干した梅をかめに戻しました。

今年も重量比18%の粗塩で漬けましたが、この日差の強さと気温の影響でしょうか、塩分が析出しまくりです(つまり良く干せたという事)。

逆に言えば塩分飽和状態なのですから腐ったりカビが生える心配はありません。
このままかめに入れておいても、外皮部と内部の塩分濃度が自動的にある程度は調整されます。
ですが多少「ジャリ」感が残ってしまう。

もう一度漬けていた梅酢に戻します。
これで余分(析出する)な塩分を梅酢に戻し、梅干本体には飽和状態の塩分を残すのです。















このまま梅酢に入れたまま熟成しても良いし、梅酢から出して熟成でも良し。
今年は2Lサイズということもあり、果肉の厚みが多めで柔らかいのです。

梅酢の中で熟成すると浮力もありますから果肉の破れは生じにくい、梅酢無しで熟成ですと自分の重量によって破ける事が多いのです。

当然ですがかめの中での上部と下部での状態の違いが大きい。

状況を見ながら考えます。

2020/08/03

夏の野川公園

初夏頃でしたか、今回の騒動で行く場所が無くて野川公園にマイオ君モミ子を連れて行いました。
駐車場に入れませんでしたね、閉鎖ということです。
とりあえず現在は大丈夫です、入れました。

今日は駐車場も満車に近い状態ですし、確かにバーベキュー場は賑わってます。
人間だけじゃない「僕達だって少しは羽伸ばしたい」とたぶん思っている。
梅雨も明け、一気に暑いのですけれど。

2020/08/02

暑いけれど公園へ

いよいよ梅雨も明け、待ちに待った日差しが戻ってきました。
気温は確かに高くて湿度もある。
けれども、そんな当たり前の夏を感じようと善福寺公園に。























少し仕事もあったのでPCも持って行きました。
ですがポータブル電源は持って行ったのに、肝心のACアダプターを忘れてしまった。
バッテリー駆動のノロノロが嫌でポータブル電源を導入したはずなのに。
仕方がありません、ノロノロのバッテリー駆動で我慢しましょう。
実際、PCを使う仕事はほんの少し。
メインは読書と考えていましたので。

杉並区の今川図書館で先日借りてきた本。
養老さんの本は度々読むのですが、どの本を読んだのかを忘れてしまいます。
けれど養老さんの書いている事、およびエピソードは、あの本やこの本にも書かれているので、結局は一緒かも。























秋山さんの「丁稚のすすめ」と「糸と針BOOK」は完全に思いつきで借りました。
どちらも「借りて良かった」本です。
本の良さはジャケ買いと一緒です。
ネットでの検索は「この情報が欲しい」と思って得る情報、つまり現在の自分の世界の中。
対してジャケ買いで読む本はラジオから突然流れてくる音楽、地方に赴いて初めて見る景色みたいな予想外のもの。
これらは望んでいなかったにも関わらず、自分の中に入ってきてしまった(気付いてしまった)ものです。
私は後者を重視しています(と言うより「ああすればこうなる(養老さんの受け売りです)」という策を築くために過去の「知っている範囲の」情報を漁る事にどれだけ意味があるのか?)。

私は写真集や資料集は購入しますが、著書は殆ど買いません。
いつも図書館で借りています(作家の方、ごめんなさい)
しかし昔(私が二十歳くらいの頃)ハードカバーで全作を購入(今現在も所有)した本としてロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズがあります。
私と同年代でハードボイルドやらハンフリーボガートの映画やらに興味を持たれた方だったら、読んだことがあるのではないでしょうか。
己の生き方やらなどが判らない、小僧なのですがおぼろげながらこんな風に生きたいと貧相なイメージだけを抱いていた若かりし頃。
この探偵小説の主人公スペンサーから「その考え方で良い」という事を後押ししてもらったような気がするのです。

今、養老さんの本を読んでいて感じるのも、それと似ているような気がします。
イメージだけはあるのだけれども、それを言語に託せない一般人の私。
 そして読んだからといって、それを人に言語として上手く伝えられないという事も判っている。
でもね、そんなに悲観してる訳ではないのです。
スペンサーのように、自分のあるがままの価値観でいる方が良い。
判ってもらう為に、あんな事やこんな事までする自分は嫌いなのだと思う。