今日も善福寺公園で読書しています。
つまり、やるべき仕事が無いという事なのですよね。
暑いことを除けば屋外での、特に緑のある場所での読書は気持ちが良い。
暑いことは事実なのですが、木陰のベンチに座ると風を感じますし、日光を直接受けるのでなければそれほど暑くはないのです。
熱交換器で冷やされた空気の流れではなくとも、単に空気が絶えず動いている事、それにさえ「涼しさ」というのは感じられるものです。
読んでいる時間は本の中に入っている、けれども老眼鏡を外して辺りを見渡すとさっきまでの世界と異なる世界です。
これもまた幸福だなぁ(加山雄三じゃないですけど少々オーバーか)と思うところ。
人工的な公園とは言え、クヌギの大木の根元辺りの僅かに樹液が染み出している個所に次から次へとやってくるオオスズメバチ。
この間までは未熟だったムクドリの雛たちも既に一人(鳥)前になっている。
オナガの雛は一人前のようでいて、まだ大人の一歩手前でしょうか。
仕事が無い、確かに今回の騒動の影響は計り知れません。
実際に「やらなければならない事=義務」が無いのですから。
このブログでも「仕事」というラベル(カテゴリー)でも述べているように、私は人様のお店(特に飲食店)の立上げのお手伝いをしています。
正確に言えば設計とデザイン(これって同意語なのでしょうけれど、日本語でのニュアンスは異なりますね)の領域でのお手伝いです。
人生を50年以上過ごしてきて、そして今公園で読書をしているわが身を客観的に見て思うこと。
今日も仕事(?)してるなぁ。
今だから思えることなのかもしれませんが、今日この時間も何かしらのインプットにはなる(はず)。
若い頃はこの状態を「怠惰」と思っていたと思います。
何かの為に一生懸命インプットに励む事も確かにあります。
学生時代でいうならば参考書を読みまくるみたいな。
どちらが良いとかの話しではありません。
私の仕事というのは「私のアウトプット」に期待する方に対して期待に沿えるアウトプットをする事です。
こんな私の「排泄物」に価値を見出してくれる一部の人達のために私の仕事の存在価値があります。
だとするならば、そのインプットは私が無理してインプットするもの(先の参考書読みまくり)のようなものでなく、私の気の赴くままに入ってくるインプットで良いかもしれない。
無理に知識武装することもなく自分の興味のままに知見を得るだけ。
そして自分と異なる領域を持っている人と知り合えども、それがお互いの領分であることを理解しつつ協業できるとするならば、自分があちらやそちらの領域の知見を持つ必要はありませんね。
傍から見ると「今日もあの御主人、仕事もせず公園でグダグダしていましたよ」ということになるのでしょう。
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