2012/12/16

吉祥寺で

昼に投票は済ませました。

夕方に吉祥寺へ出かけました。
CWS吉祥寺でSHIMANOの部品の取寄せをお願い、その後吉祥寺をブラブラと。
ハモニカのロティの店に来てみたのですが、知らない間に2件に分割されていました。
奥の1/3くらいの部分が「ビンボー」という別の店に。
























ビールを一杯(小さいワイングラスなのですが)飲みました。
しかし「ビンボー」という店名、まさに自分にピッタリというか。
カウンターに居た女性(のような身なり)のお客様と大将が本日の選挙の話題をしていました。
このビンボーではないですが、貧しくとも良い国になって欲しいですね。

「貧しい」って、別に自虐的に言っているのではありません。
新しい物を生み出してたくさん売る事が産業という風潮が長く続いていたと思います。
しかし建築にせよプロダクトにせよ、過去においては日本(いや世界の他の国でも)は何度も修理や補修をして使っていたはずで、それが当たり前だったはずなのです。
素材も、さらにそれに手を加えて作った物というのは貴重だったという事もあるでしょう。
誰しも自然と大事にしなければいけないと考える「物」だったのでしょう。
特に「人による手」を加えた物が製品であって、その「人による手」というものが価値のあるものと認識されていたのでしょう。

高度経済成長の頃からなのでしょうか、「物」というものが「消費」と同意になってしまったのは。
同時に「物」から「人による手」が忘れ去られてしまったのもその頃からなのかもしれません。
けれども、そもそも「物」は消費であるべきではない思うのです。

「物」というのは誕生させるという仕事とメンテナンスという仕事という「人による手」を素材に与える事によって存在するもの。
そして、このメンテナンスに「素材」や「労働」を使って一つの「物」の寿命をまっとうさせるというという事は、かつてはひとつの、当たり前の産業(仕事)であったはずなのです。

ある意味、このさして資源を使わない「メンテナンス」という、ほとんど人の手だけによる仕事が仕事として成り立つ(それにお金が支払われる)なんて、我が日本にとって良いことは無いのでは?
包丁だって切れなくなったからといって買い替えるものではないですよね。
研ぐという当たり前のメンテをすれば生き返る物。
新しい包丁ではなく、「研ぐという技術」が商品になるのです。
「物を消費しなければ産業が育たない」なんて、その業界の方の都合による世迷言でしょう。
二言目には「物が売れなければ・・・」なんて事を言う経済評論家の方もいます。
しかし使い続けたい「物」と修理し続ける「手」を商品にはできないのですかね。

ましてや通貨安を武器に安物を世界に売りまくれば良いなんて、「もったいない」という言葉を世界に発信した日本がやる事では無いと思うのです。
その路線で隣国と競争(しかもこの為替状況で)する事自体が馬鹿げていると思います。
メンテ等のサービスを含めて確かな(欲しいと思う)物を売る、面倒な仕事ですけど日本人ならできそうな気もするのですよ。

貧しいと言われようと、ケチケチとやって行きたい思うのです。
そういえば私のこのブログ、新しい物の購入という記事もありますけれども、基本はケチケチと昔の物を使い続けたいという話ばかりです。

一方、今日はケチケチせず、カルディでワインを一本買って、選挙の結果を肴に 飲むつもりです。
これからの日本に乾杯!という事で。

0 件のコメント:

コメントを投稿